発達障害や不登校、さまざまな個性を持つ子どもと向き合った元校長が伝える“本物の学力”


週刊女性の2019年9月5日の記事から。
「そもそも『ふつう』ってなんでしょう」という問いかけは胸に来ますね。
私もどこかで我が子を「ふつう」でない子と思っています。ただ、落ち着きなく走り回ったり、自分の殻に閉じこもったり、コミュニケーションが取りにくいだけなのに。もう少し考えてみなければいけないですね。

そもそも『ふつう』ってなんでしょう。『ふつう』があるなら『ふつう』じゃないものもあるということですよね。実は、私がこの『ふつう』という言葉を意識するようになったのは、9年間務めた大空小学校の校長を退職してからのことでした。

 45年という教師生活を経て、講演会やセミナーなどで、47都道府県すべてを回ったんです。そこで出会ったのは、小学校、中学校と学校に行けなかった子、自ら命を絶ってしまった子のことで、ずっと苦しんでいるお母ちゃんやお父ちゃんや、学校の先生も。心がある人は苦しむんですよ。そんな人たちでした。

 たったいまも「困っている」ことを抱えている子どもや大人たちと。何百人と会いました。そんな中で学校に行けなかったまま若者となった子たちから、幾度となく受けたのが、「先生『ふつう』っていったいなんですか?」という質問でした。

 ある青年がこんな話をしてくれました。

「自分は小学校、中学校と、毎日が苦しくて学校に通うことができなかった。高校はいろんな学校があるから、入学して席はおいたけれども、やっぱり『学校という場』が苦しくて、通うことができなかった」

 学校に行けないまま大人になりつつあるその若者が、「『ふつう』ってなんですか?」と真剣な顔で私に問うんです。

 私はそれまで考えたこともなくて、答えられませんでした。そのかわりに「なんでそんな質問するの?」って聞いてみました。

「私はこの『ふつう』という言葉に苦しんで、100本くらいリストカットしました」

 その青年の身体に刻まれた傷は深くて、縫っているものもあるほど壮絶なものでした。彼は『ふつう』という言葉に苦しんで、何度も何度も自分を消そうとした。そのころを無数の傷が物語っていました。

 小学校でも中学校でも先生から「おまえ『ふつう』のことぐらいやれよ。みんなやってるやろ?」と言われ続けたそうです。

 でも、自分にはなにが先生の言っている『ふつう』なのかわからなかった。『ふつう』ってなに?『ふつう』のこともできない自分はダメなんだ。生きている値打ちはないんだ。ずっとそう思い続けて大人になったんです。

自分の身体に傷をつけ、存在を消そうとしていた彼。この子はね、性別は「男」だけど、女性になりたかった子なんです。

 いまでこそLGBT(性的少数者)という言葉が社会で認知されて、「男と男が結婚して何が悪いの?」というような風潮に社会が変わってきたけれど、10年前の彼が小学生だったころは、今とは全然違いますよね。

「男のくせに」「女のくせに」という言葉が平気で飛びかっていた時代です。その時代に、この子は『ふつう』であることを強いられ続けきた。

 好きな色の可愛いカバンが持ちたくて、ピンクのカバンをもっていくと、同じクラスの男子からいじめに遭う。先生からは「おまえは男やからピンクなんか持つのやめろ」と忠告される。

 なぜダメなのかと問い返しても、先生たちは説明する言葉を持ちません。

 そして、こんな言葉を彼に投げる。

「ほかの子を見てみ。みんな『ふつう』やろ? おまえだけ『ふつう』じゃないんや。『ふつう』のことくらいできへんかったら、学校に来られへんぞ」

 この子はそんな言葉を敏感に受けて、自分で姿を消そうとした。それが100本の線になって残っているんです。
 こういうこと、子どもに限らず、大人でもありますよね。私もこんな経験があります。

「人って、見えるところしか見ない」
 規模の大きなシンポジウムに講師として呼ばれたときのこと。来賓席には大きな花と名札を胸につけた市長さんがおられるような会です。そこに、あえてジーパン姿で行ったんです。

 そうしたら、会場のおえらいさん方が、私の顔を見る前にジーパンに目を落とす。それだけで、「誰や、こんな講師を呼んだん!?」ていう空気が流れて、「失礼なやつ」と言いたげな顔を向けて、挨拶もなく目もあわさない。

『ふつう』の大人なら、こんな場にジーパンなんかはいてこないだろう。そう思っているのがありありと感じられました。

 人って、見えるところしか見ないんです。私はそんなのへっちゃらですよ。でも感受性豊かな、繊細な心を持った子どもはそれで傷つけられる。

 でもね、見えないところを見る大人がひとりでも増えたら、消えてしまおうとか、自尊感情をズタズタにされる子どもが少しでも減るでしょ。みんなが変われなくても、気づいた人間がひとりでも変わればいい。

 学校でもそうです。「先生の言うことおかしいと思うよ」って言える親や地域の人、そんな大人が誰かいれば、その子は助けられる。

『ふつう』というのは、その場の、その時代を占めているその他大勢の人が出す、「空気」なわけです。正しいか正しくないかではなくて、数が多いから「空気」をつくっているというだけ。

 でも70年前には、その空気にのまれて、多くの若者が戦争に行ってしまったという時代が日本にはありました。

 そうした過去を否定するとかではなく、今の現実を新しくつくるために、大人は問い直ししないといけない。そのときに、もっとも不要なものが『ふつう』という言葉だと私は思います。

 やっぱり人は、弱いし流される。「みんながいえばそれが当たり前」という空気になる。それでもひとりひとりが、自分はどう考えるかと自問自答しながら、立ち止まって自分の考えを持てば、その空気はもっと自由なものに変えられる。

 私が見てきた大空小学校の子どもたちは、先生や大人が何を言っても、「だって自分の考えはこうやんな」という高い自尊感情をみんなが持っていました。自分の言葉を大切にしていました。子どもたちは校長の私にも「先生バカやな、わかってへんな」と、ふつうに言います。それが『ふつう』なんです。

 自分の考えを持つ。それが当たり前のこととして、子どもの中に蓄積されていかないとあかんでしょ。これが義務教育で身につけるべき最低限の学力です。そして、その学力は、社会に出たときに“生きるための力”となる。その学力を身につける権利を、子どもは当たり前に持っています。

 それこそが、学校でいちばん大切にしないといけない『ふつう』のこと。それを伝えたくて、今日も明日も私は、全国を飛び回っているのかもしれません。

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